どうでもいいけどよくない
夜は不安にさせる。
aiによる音声、画像生成するアプリの存在を知った。
新しいことに対する恐怖感を和らげるために、はじめて知ったものを記録しておく。
考えがまとまらない。不安で仕方ない。
一度シャワーを浴びる。
少し落ち着いた。
インターネットをゴミの掃き溜めのように利用していいのだろうか。個人的な日記にも書けるけれど、ブログの方が参照しやすいから気に入ったのだが。
変化することを楽しもう。昨日も書いたような。
今日一日でも多くの感情の波があった。目が覚めた時に幸せを感じ、なぜか明るい気持ちで過ごしていたことが、はるか昔の出来事のように思える。やっぱり不安。つらい。
何が問題なのか整理できていない。つらいけれど何がつらいのかわからない。就職活動のこと、大学院のこと、人間関係のこと、将来のこと、人生のこと。大したことはないように思えるし、そうは思えないし。
保険センターの係りの方に話を聞いてもらった。その時は元気な自分だったから、精神が不安定になった経緯を伝えた。
顔を一度も見ていない。一方的に話した。相手のことを考えていなかった。ただただ助けを求めていたのだろう。
二日後に精神科医の方と会うことになった。少し楽しみだ。
楽しみ半分、恐れ半分、それすなわち挑戦である。
同じことを書いているのなら、反芻思考の客観的事実になる。
それを知れるのは安心だろう。
もし病気を診断されたら、どんな気持ちになるんだろう。
弱い自分を受け入れることができれば、前に進むための一歩を踏み出せるはずだ。
自分に対する愛。自己愛。私はいつもいつも私のことで頭がいっぱいで、私のことが大好きだ。就職活動によって人間性を否定されたと感じる以上に、私の溢れんばかりの自己愛が就職活動ごときに破壊されるのが納得いかない。悔しい。弱い自分から目をそらしてはいけない。
すべてを投げ出したい。けれど、投げ出さずに踏ん張ることが人間に深みを与えてくれると思う。苦労した経験は美徳だ。古い価値観だと一蹴されても今の私は信じている。
そんなの自己正当化しているだけ。逃げるべき時には逃げなさい。
余命宣告されたい。
そんなことを考えること自体間違いだ。不安にさいなまれ恐怖におののき逃げることを渇望する。正しさは時に残酷である。弱い自分を己が許さないから、誰かに肯定してほしいのだと思う。死の解像度が上がったとき今よりもっともっとつらくて悲しいに決まっている。それはわかる。それでも残りの命が決まっているなら、落ち着いた心で生きられる。そこに救いがあることを願うことでしか生きていられない。
結局選択を先延ばしにする。現状維持を続けるのは「選ぶ」ことになるのか。
自己否定の繰り返し。前の言葉を受けてそれを否定する言葉で文章がつながれていく。言葉にも変化が生じていくのだと考えると楽しみである。
突然、外から男の声が聞こえた。外にも世界はあることを思い起こさせる。
私の世界の中だけで生きていたい。無責任な希望を明日の自分に押し付けて今日は終わることにする。